生と死を考える・・・②
この5月2日に私は大切な友人を亡くした。
彼女とは、去年9月にたまたま常滑の倫理法人会のモーニングセミナーで名刺を交わし、その後お手紙を頂いたのがご縁であった。
その後、10月の大府のモーニングセミナーで講師をされる事を知り、聞きに言った。
タイトルは 『今を生きる』
たまたま学生時代に名古屋球場でアルバイトをしていて、彼女のお店のオーナー(以下社長)のお母様にその働き振りを見染められ、その後社長の経営する喫茶店で何年か働いた後、料亭の女将に抜擢された。
その後13年間老舗料理店の「みその亭」の女将として、顔晴って(頑張って)来た。
ところが、2006年に卵巣癌になり、手術後復帰したが、二年後に再発。その時「余命半年」と医者に告げられる。・・・10月の講演では、「そういう事って、普通本人に言う前に家族に一旦伝えませんか?!いきなり医師にそう告げられ、本当に驚きました。」と当時の気持ちを率直に話していた。
大府のモーニングセミナーにて
講演では、医師の言葉にショックを受けて迷った挙句、瀬戸内寂聴さんに会いに行った時の話になった。
「あなた、そんなこと悩んでいるの?!今こうして話している私だって、明日外に出れば何があるかわかんないのよ!明日は交通事故で死んでるかも知れない。余命半年ってはっきり言ってもらえただけで、残った人生をどう生きれば良いか考える事が出来るんだから、突然死ぬ人より幸せじゃない!!」・・・少し違うかも知れないが、その時寂聴さんはそんな様な事を言ったそうである。
「寂聴さんの話をお聞きして、『人は死に方は選べないけど、生き方は選べる。だから毎日を後悔しないで生きていこう!』と思うようになりました。」と、その講演で彼女は語っていた。
「余命半年」と告げられ寂聴さんに会いに行ってから、その時既に二年が過ぎていた。
その講和を聞いて私は 「この方の癌が治るようにご協力するのは私の使命かも知れない・・・!」 と、もしかしたら彼女にとって迷惑な話だったかも知れないが、「京都にとても素晴らしい医師がいらっしゃいます。一緒に行きませんか?!」と誘った。
京都の医師とは伏見区で西洋医学だけでは改善しない病気を代替医療にも力を注ぎながら、日夜難病の治療に尽力なさっている堀田先生のことである。
なんと驚いた事に、初めて癌が見つかった時、彼女はお店に来られたあるお客さまの紹介で、堀田先生の所で治療を受けていたのだった。
とても経過が良かったので、「今の調子なら、しばらく通院しなくても良いですよ。」との事でずっと通院していなかったそうであった。
ここで、また深いご縁を感じた。
お互い忙しい中メールを交わしながら、堀田先生の治療を受ける事が出来たのは、今年の2月のことであった。
去年の10月、彼女のセミナーで会った時はあんなに溌剌としていた彼女だったが、この2月に堀田先生の所に行く直前には、腹部が腫れ足もむくみ、正座もままならないほどになっていた。
その時堀田先生は、彼女の手を握り 「何でもっと早く来なかったの?!ずっと気に掛かってたんだよ! いつも側にいるからね!一緒に頑張ろう!」と仰ったのですごく有り難かったと、帰りの車の中で彼女は言っていた。
そんな身体だったが、彼女は女将としていつもと変わりなく笑顔でお客さまを迎えていた。(正しくは、亡くなる2週間前まで働いていた。)
3月も一緒に京都に行き・・・この4月中旬、堀田先生の通院の予約数日前にどんどん腹水と胸水が増えだして・・・、急遽近くの病院に入院したというメールが入った。
4月29日 彼女の事が何だか気になり、お見舞いに行った。
身体は、かなり痩せていたが、思ったよりも元気だったので安心した。
だが、二人だけになった時彼女は、「死に方は選べないんだね・・・。 私は他の癌患者さんと違ってモルヒネを使わなくてはならない様な激痛はないけど、腹水と胸水が溜まって、本当に苦しいのね・・・。もう楽になりたい。」と言った。
同じ苦しみを味わったことのない私は、何と答えて良いものか正直言って戸惑った。
「何言ってんの?!もっと頑張んなきゃダメでしょう~!」なんて事、到底言えなかった・・・・ただ、ただ彼女の手を握って話を聞く事しか出来なかった。
彼女の話を聞いている時、甲斐甲斐しくお世話をしていた社長が入院室を出たり入ったりしていた。
後で知ったのだが、その時お店のスタッフさんがお見舞いに来ていて、彼女に晩御飯を食べさせてから帰る事になっていたようだった。
私が何時までも帰らないので、社長はスタッフさんに気遣って早くその人を帰らせてあげたくて、少し困っていたようだった。
そんな事を知らない彼女と私は、ずっと話をしていた。
「そうだ!こないだ講演した時に皆さんにお配りした『おかめパン』がもう直ぐここに来るのね! ゆり先生、待って帰って!! お子さん達のお土産に・・・!」と言ってくれたので、そのパン屋さんを待つことになった。
社長の意に反して?パンはなかなか届かず、一時間ほど待ってようやく来た。
おかめパン
話をしている時も、帰る時も涙が出てきて・・・帰りの車の中で、「一体私は何をしに行ったんだろう・・・。」と、つくづく自分が情けなくなった。
そして、5月2日・・・再び彼女を訪ねると、彼女は意識もうろうとしていた。
社長が「もう昼からずっとこういう状況なんだよね・・・。」と苦悩の顔で私に言った。
側で見ているのが辛いのか、社長が入院室から出て行った時、彼女はもうろうとする中で 「暗くして~。もう寝かせて! まだ?!まだダメなの~?!」と何度もうわ言のように言った。
私は、「大丈夫、電気消したよ。カーテンも閉めたよ!さあ、ゆっくり寝ようね!」と泣きながら彼女に言った。
そして、社長が入院室に帰って来た時、彼女は頭を上げて、おそらく全身全霊の力を込めて、精一杯の笑顔を私達に見せてくれた。
これが彼女の 「ありがとう。さようなら」 だと感じた。
これが彼女との最期の別れだと・・・。
やがてご家族の方々がお見えになり、私が帰宅して二時間程したら、スタッフの方から訃報の電話が来た。
それは彼女の誕生日の十分程前であった。
受け入れなくてはならないのだが、彼女の死を受け入れたくない私がいた。
弱い私は、29日から告別式までの間、仕事以外の時はずっと飲んだくれていた。
でも、そんな事をしても彼女は帰ってくるわけではないし、喜んでくれるわけでもないと思い、4日の日、心の区切りをつける為に、彼女の告別式に出た。
今でも、逢いたい。逢ってもっといろいろ話を聞きたい・・・。
ご家族の話、社長の話、仕事の話、新しい恋の話・・・まだまだ続きがある筈だと絶対思っていたのに・・・。
でも、彼女は再発してから、残った人生を『今を生きよう。』 と、最後まで本当に最後まで精一杯生きたのだと思う。
彼女は私だけではなく、彼女の話を聞いた多くの人の心の中に今も生きている。
人は(動物も)確実に死ぬ・・・。
だからこそ、『今、この今を生きなくてはいけないのだ。』 と、彼女は私達に教えてくれた。
與語淑子さんのご冥福を心からお祈りすると共に、彼女に感謝の意を捧げます。合掌・・・。